大塚智則

声優 大塚智則 First, There was a boy longing to be a hero…

(c)OHTSUKA TOMONORI (c)LYNC-ENTERTAINMENTS.,Inc.
Story-005 分岐と転機

Story-005 分岐と転機

僕の人生には二度の分岐点がある。
そしてそれは同時に転機だった。

まずは専門学校時代。
卒業公演を控えた数週間前に最愛の祖母が他界した。

最後まで家の後継ぎとしての僕に期待していた祖母に、僕の夢はよく否定されていた。
でも自分が舞台に立つ。
しかも凄いメンバーの中、メインの一人に選ばれた事を、とても喜んでくれた。

幼少期に遡る。

小さい頃、沢山の事を教えてくれたのも祖母だった。
半身不随で遠出もできず常に家の中だったがいつも僕を可愛がってくれた。

昔話も、小説も、漢字も、時代劇、演歌、日本の古典芸能の素晴らしさ。

名作映画『慕情』が大好きな
とてもおしゃれで可愛らしい祖母。
東京出身でいわゆるハイカラな祖母。

遠出ができない祖母にいつしか僕の声でも楽しんでもらえるようにと
強く声優に拘ったのもここから。

祖母が他界した日も朝から稽古だった。

誰にも言えなかった。
言ったらプロじゃないと思った。

この仕事は親の死に目にもあえないものだ。

その言葉を言ったのも祖母だった。

酷い消失感の中、稽古終了後に演出に呼ばれた。隠し通せなかった。

直ぐに実家に帰れと言われ、何とか一通りのお別れを済ませることができた。

祖母の火葬からの帰りに遠い親戚から言われた

『これも芸の肥やしだ』。

酷く残酷な言葉だった。

自分が夢を追わなかったら、
祖母の死に目にも会えたのだろうか。
別れを言えたのだろうか。

自分は祖父の死に目にも会えていない。

そのせいもあってか…
常に祖父や祖母の面影を辿りながら
その後の卒業公演を越え、そして養成機関への門戸を叩く。

もう一つは父の死だ。

僕が役者を続けていることの分岐点はこの事が一番影響を与えている。

父は元々某大手自動車会社の営業マンだった。人当たりも良く、とにかく人望の厚い人だった。

そんな人が、自動車の営業で立ち寄ったのが母の家、そこで母に一目惚れしたらしい。

そして父は婿養子として大塚家に入った。

家族の会話としても、馴れ初め的な部分ではよく話される、両親が家族になったエピソード。

父の家は父親(祖父)が猟師、そこから鉄工所を始めた為、決して裕福では無かったそうだ。

父は若い頃、下の兄弟をきちんと学校に行かせたいということで、中学卒業後就職した。

そして父も独学で勉強、そして大手に就職したそうだ。

こんな会話も、断片的にしか記憶できていない。
父が亡くなってから、父方の祖母がかつての父の事を沢山話してくれた。

母からも父の話を沢山聞いた。

父とはどちらかというと高校に入ってからはあまり会話という会話を交わさなかった。

理想の男像は父だったが、あの人ほど社交的でもなく、努力家でもなく、寧ろ父の期待等から逃げていた気がする。

そんな自分を応援してくれたのは父だった。

高校の三者面談で声優になりたいと言い出し、母からも親不孝ものと泣かれ、そんな中行きたかった学校は認可の無い専門学校。

途方に暮れていた。

そんな時、父が専門学校の情報誌を持ってきて、ここにあったぞ。

と、専門学校のページを見せてくれた。

やりたいことならキチンとやれ。

その言葉で自分は東京に出る。

父がなくなったのはそれから4年後のこと。

声優養成所と劇団養成所と掛け持ちしていた頃、劇団で新人公演があった。

自分は探偵のような刑事部長役で
ミステリーだった。

学校の卒業公演には来なかった父が
はるばる来てくれた。

本当に嬉しかった。

待合室が劇場入り口の真上にあった、
だから聞こえた。

父が恩師に伝えていた言葉。

『大塚智則を宜しくお願いします。』

父はその三ヶ月後に、急性大動脈解離で緊急入院。

父の血液型はA型のRH-。
1,000人に一人の血液だった。

その三ヶ月後、一度も意識を戻さないまま、僕達の見守る中、息を引き取った。

父がいなくなった実感が湧かなかった。

母も妹も病室で泣き叫んでいた。

本当に自分は父との思い出が幼少期しか無いことに気付いた。

帰省した時、仕切りにどうだ?
二言目には声優に拘るな、だった。

その事で衝突をよくしていた。

通夜には500人もの人が訪れてくれた。

皆泣いていた。

自分は…泣けない。

ただ父の偉大さが見える分、
自分が余りにも独りよがりで
小さなものに思えた。

…皆にとって大切な人だったんだと言う気持ち、そんな人が居なくなってしまった事。
それしか受け取れていなかった。

皆が帰り、母と父の前で父のそれまでの事を聞いた。

父は常に、映画やドラマをチェックしていたらしい。
『智則は照れ屋だから何に出たとか絶対に言わない。』
そう言って常に気にしてくれていたらしい。

そして父が若い頃に役者をやっていたことも聞いた。

若い頃のたった数年だがやっていたそうだ。
だから、拘るな、一つに絞らず何でもやれ。何でもできるようにしろ。

父はそう言いたかったのだと気付いた。

そして、父が手術室に向かう時に母に対して言った言葉。

『智則を助けてやってくれ。あいつの仕事はいつ芽が出るか分からん仕事だ、俺にもしもの事があった時は、お前しか応援できるやつはいない。頼むな。』

母からそれを聞いて涙が止まらなくなった。

いつ辞めるのか

父は常にそう思っている、
そう決めつけていた。

しかし違った。

父は楽しみにしていてくれていたのだ。

息子の声がテレビの中から聞こえてくるのを。

そして誇りたかったんだと。

もう泣くしかなかった。
父に何度も謝った。

もっと努力できていたら。
もっともっと積極的に前に出ていたら。

悔やんでも悔やみきれない。
母も一緒に泣いていた。

本当に自分は親不孝だと思った。
自分は誰も幸せにできないと思った。

それを見越してか母が言った。

『お前はもう外に出した。うちに戻ろうなんて思わないで、お父さんが言ったように、声優をやりなさい。きちんと最後までやりなさい。芽が出るまで母さんが見ててあげるから。』

この三ヶ月後に、僕は声優デビューを果す。

実家では近隣の方々がうちまで来て、
皆で観てくれた。

父が生きていたら、きっと大喜びしながら

『まだまだだな~』

と言っていたに違いない。

これが、自分の今を形成する軸であり根幹である

«